2026.07.16
白村江の戦い ── 負けてから始まった国づくり
海の向こうでの敗北が、国のかたちそのものを作り変えることがある。
663年8月、朝鮮半島南西部の白村江(はくすきのえ)で、倭国と百済復興軍の連合艦隊は、唐と新羅の連合軍に完敗した。数年前、唐と新羅はすでに百済を滅ぼしていた。生き残った百済の遺臣たちは復興を目指して倭国に援軍を求め、倭国は大規模な水軍を送り込む。だが海戦でも陸戦でも歯が立たず、朝鮮半島における倭国の足場は、この一戦でほぼ消えた。
跡を残したのは、負けたこと自体よりも、負けたあとの動きだった。「唐という当時最強クラスの帝国が、本当に攻めてくるかもしれない」という恐怖は、白村江の敗戦までは実感の薄かった話を一気に現実に変えた。対馬の金田城、大宰府を守る水城、大野城、基肄城――北部九州から瀬戸内にかけて、亡命してきた百済の技術者の知恵も借りながら、山城が次々と築かれていく。同時に進んだのが、国のつくり直しだった。670年、天智天皇のもとで「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という戸籍が作られる。人がどこに何人住んでいるかを、国家が初めて全国規模で正確にとらえた記録とされ、徴税や徴兵を確実に行うための土台になった。
戸籍は普通、6年ごとに作り直され、30年たつと処分される決まりだった。この決まりを定めたのは、庚午年籍ができてから31年後、701年の大宝令だ。そして同じ大宝令が、庚午年籍だけは例外として「永久に保存せよ」と定めている。理由は、唐の再侵攻に備えてでも、負けを繰り返さないためでもない。もっと生活に近いところにあった。氏や姓、良民か賤民かをめぐって争いが起きたとき、ある家がもともと何者だったかを照らし合わせる、いわば身分の原簿として使うためだ。実際、奈良時代から平安初期にかけて、庚午年籍は氏姓をめぐる訴訟のたびに証拠として引っ張り出されている。
だが、庚午年籍(「永久に残す」と命じられた戸籍)は、今どこにも現存していない。廃棄される前提だったはずの後の時代の戸籍のほうが、写しや記録としていくらか伝わっている一方で、最初に「消してはならない」と言われた庚午年籍だけが、いつのまにか消えている。
過去に縛られた行動 くだらない 白村江みたい
——RAq「World Engineer」
▷ この曲を聴く https://big-up.style/1NKAV2z7My
RAq Profile https://mybase.fan/raq
ファンになってお知らせを受け取る
RECENT NEWS
配信の一時停止のお知らせ
後楽園 ── 「後で楽しむ」が遊びの街になるまで
シティ・トゥ・シティ ── ヒット盤の裏にあった夜行列車
ルサンチマン ── 怒りが性格へ変わるとき
ゴブリンモード ── 架空の見出しが掴んだ時代の本音
