Weekday B. Morning

2026.07.28

ゴブリンモード ── 架空の見出しが掴んだ時代の本音

「今年の言葉」が、これほど一方的に決まることは珍しい。2022年、オックスフォード大学出版局が史上初めて一般投票に委ねた結果、34万票を超える票の93%、約31万9千票を集めたのが「ゴブリンモード」だった。次点のメタバースは約1万4千票。勝負と呼ぶには差が大きすぎた。

ところが、この流行の出発点には奇妙な事情がある。広まりの火種は、実在しないニュース見出しだった。

2022年2月、女優ジュリア・フォックスが、当時交際を報じられていたカニエ・ウェストについて「彼は私がゴブリンモードに入るのを嫌がった」と話した――そんなニュース風の画像が投稿された。だが、これは創作だった。フォックス本人も後にインスタグラムで、「ゴブリンモードという言葉を使ったことはない」と否定している。

それでも、訂正が追いつくころには言葉だけが独り歩きを始めていた。検索数は急増し、TikTokやRedditで拡散。4月にはイーロン・マスクも使うまでになった。誰かが実際に口にしたかどうかよりも、多くの人が「それ、わかる」と感じたことのほうが、この言葉には重要だったのかもしれない。

オックスフォード大学出版局はゴブリンモードを、「悪びれることなく自堕落で、怠惰で、だらしない、あるいは強欲に振る舞うこと。多くの場合、社会的な規範や期待を拒む形で」と定義している。

単なる「だらける」ではない。鍵になるのは、「悪びれることなく」という一節だ。整った暮らし、規則正しい朝、自己管理と向上を求める空気。そのすべてにきちんと応えられなくても、あえて申し訳なさを抱えずにいる。ゴブリンモードは、行動の名前であると同時に、期待から少し距離を取る態度の名前でもある。

語としての歴史は、2022年に始まったわけではない。「goblin mode」の用例は2009年の投稿までさかのぼるとされる。ただし当時は現在のような意味で定着していなかった。一方の「ゴブリン」はさらに古く、12世紀の古フランス語「gobelin」、そして「ならず者」を意味するギリシャ語「kobalos」につながるとされる。民話に登場する、醜くいたずら好きな妖精がその原型だ。汚れた洞穴に暮らす生き物という印象は近代ファンタジーのなかで強まり、トールキンの『ホビットの冒険』もそのイメージの普及に関わったとされる。

2022年は、パンデミック下の制限が緩み、「以前の生活へ戻る」ことが求められ始めた時期だった。言語学者ベン・ジマーは、この言葉が当時の気分を的確に捉えたと評している。画面を開けば、整頓された部屋、理想的な朝の習慣、管理された毎日が並ぶ。その反動として、完璧に整えることをいったん放り出すための言葉が必要になった。

存在しない見出しから飛び出したゴブリンモードは、だからこそ妙に現実的だった。だらしなさを告白するだけではない。「今日はこれでいい」と、社会の期待に対して少しだけ肩の力を抜く。その開き直りまで含めて、この言葉は2022年の空気をさらっていった。

今日は lazy lazy lazy スマホ片手にゴブリンモード あらがえない甘い堕落の誘惑 予定もかまわずに 一日をゴミ箱に投げ捨てて 無に耽る

——RAq「ゴブリンモード」

▷ この曲を聴く https://big-up.style/R4BRbvvtxJ

RAq Profile https://mybase.fan/raq

レターで感想を送る

ファンになってお知らせを受け取る

Weekday B. Morning
平日の毎朝8時にエッセイと曲をメールでもお届けします。

RECENT NEWS

2026.08.03

配信の一時停止のお知らせ

2026.07.31

後楽園 ── 「後で楽しむ」が遊びの街になるまで

2026.07.30

シティ・トゥ・シティ ── ヒット盤の裏にあった夜行列車

2026.07.29

ルサンチマン ── 怒りが性格へ変わるとき

2026.07.27

グレンリベット ── 谷を守った小さな冠詞